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伊勢久居藩 江戸屋敷跡 藤堂佐渡守

津藩2代藤堂高次公が隠居の際5万石弟の高道公に分けて久居(ひさい)藩を立藩しました。

津藩の支藩として幕末まで存在して度々本家に養子を送ってお家を守って行ったといういきさつがあります。特に10代津藩主高兌(たかさわ)公は、この久居藩12代藩主で、1797年に「義倉積米」制度を用い藩士の知行や扶持米の100分の1を藩に積立て藩の事業資金にしたり、困窮している方に貸し付けしたり、藩校の運営資金や、災害復興など藩の引き締めなど行って乱れた藩政を立て直しました。義倉積米は廃藩置県まで継続されました。

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久居藩上屋敷

台東区上野1丁目(凸版印刷)

7164坪

藤堂佐渡

5万3千石

備中庭瀬藩 江戸屋敷跡 板倉摂津守

1600年関ヶ原の戦いで西軍宇喜多秀家の家臣戸川達安は内紛により東軍に付きその功により2万9200石で立藩しました。のちに断絶し、一時幕府領になりました。1683年久世重之公が入封し、1686年変わって松平信通公が3万石で入封しました。1699年板倉重高公が2万石で入封し、幕末まで11代172年間続きました。特に7代藩主板倉勝資(かつすけ)は、有能な藩主で、殖産興業や、民政に尽力し、凶作に備えて義倉(ぎそう)という備蓄倉庫を造ったり誠意館という藩校を創設し藩士子弟の教育化に努めていました。

庭瀬藩の中では有能な藩主で中興の英主といわれています。

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江戸時代の地図

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現代の地図

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春日通りと本郷通りの丁度交差点に屋敷地があります。

庭瀬藩江戸中屋敷

3909坪

文京区湯島3丁目

 

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不忍通り千駄木駅前になります

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庭瀬藩江戸下屋敷

2000坪

文京区千駄木

板倉摂津守

2万石

 

信濃高遠藩 江戸屋敷跡 内藤駿河守

高遠の地は戦国時代諏訪氏、高遠頼継が納めていましたが武田氏に攻められ没落したのち信玄の5男、保科盛信が納め高遠城主になりました。1582年甲州征伐が始まると次々と信濃の武田勢は、織田軍に寝返り高遠の保科氏だけは果敢に奮闘し、自害し落城しました。これにて武田勢は、総崩れとなり3月11日天目山にて勝頼公が自害し武田氏は、滅亡しました。その3ヶ月後本能寺の変にて徳川、後北条、上杉による旧武田領の争奪天正壬午の乱が起こり保科氏が内藤氏を後ろ盾に高遠城を奪還しました。そして後北条と、徳川で、旧織田領の争奪戦には徳川方につき高遠城としての地位を安堵したいきさつがあります。着々と徳川の下で武功を上げて嗣子がいなかった為秀忠の隠し子幸松君を養子とし育て、後の保科正之公となり、家光公が将軍となると出羽山形藩20万石の加増移封となり変わりに鳥居氏が統治し、最後に内藤氏が3万3千石で1691年に入封しました。

1714年江島生島事件で、江島を預かった藩で、

2代藩主内藤頼卿(よりのり)公から藩財政は悪化して5代藩主長好公は幼少ながら花火見物、鷹狩、遠乗りなどして民に負担をかけ諸経費もかなりの物にはなりました。7代藩主頼寧(よりやす)公は産業奨励、学問奨励、新田開発、藩直轄の桑園経営などで藩財政の改革を進めある程度の結果は出た模様です。島津斉彬、藤堂家など多数の大名とも交際があり日本の軍備の遅れを痛感して西洋式の軍備を藩内で練習していたそうです。幕府では若年寄の役職をして1841年若年寄を辞任、1859年に隠居し、七男頼直公に家督をゆずりました。戊辰戦争では新政府軍に入り北越会津戦争に参戦しました。

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高遠藩 内藤駿河守江戸上屋敷

3630坪

千代田区神田神保町

 

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高遠藩下屋敷跡(新宿御苑)

播磨姫路藩 江戸屋敷跡 酒井雅楽頭

姫路は初めは守護赤松氏柄納めていましたが戦国時代に入って次第に弱体化し、赤松支流の小寺氏の勢力下に入り姫路城は小寺氏重臣黒田氏が居城しました。織田氏が中国地方に目を向け、羽柴秀吉公が姫路城に来た時黒田氏は足掛かりとして城を差し出して貢献したが城は返されず変わって北政所の兄木下家定が2万5千石で入った。関ヶ原池田輝政が播磨一国52万石で入り姫路藩が出来ました。その時出来た今の姫路城が、後に入った藩主達に多大な維持費となって財政の足を引っ張っていきました。1617年藩主が幼いという事で本多忠政が15万石で入封しましたが1639年奥平松平家が15万石で入封し嫡子が幼いということで越前松平家が15万石で入封して藩主が幼いという事で榊原氏が入封し、のち成人した越前松平家が入封しましたが高田藩のお家騒動に巻き込まれ不手際にて減俸蟄居となり本多氏が入封しましたが(藩主年少の為)1704年再び榊原氏が入封しました。しかし8代藩主政岑(まさみね)公が吉宗公の質素倹約令を無視して遊郭通い見受けなどで、将軍の怒りをかい蟄居、重臣尾崎富右衛門による懸命な嘆願により改易は免れ懲罰的な転封で終わり越前松平家が再び入封して8年後藩主幼少の為酒井氏が入封しました。

酒井氏になるまで数々の大名家が入れ替わりたち代わり目まぐるしく変わっていました。主に幕府の重臣をここから輩出し、譜代、親藩が入っていました。酒井氏も三河からの譜代で老中、大老を出した名門になり1741年に入封しました。石高より実入が良いと転封を目論んでいましたが実際は飢饉、台風、水害、重税、一揆など、石高に見合わないお城の維持などより、財政は悪化してしまいます。

幕末、鳥羽伏見で慶喜公と共に行動した為朝敵対象とされました。1月17日に無血開城し、姫路は、岡山藩に占領されました。

徳川慶喜公が謹慎したと同時に忠績(ただしげ)忠惇(ただとし)公達も恭順し降伏しました。

しかし5月5日忠績公が江戸の大総督府に酒井家は徳川の臣という事で自ら所領没収を願い出たといういきさつがあります。

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今は大手町オフィスビルになってます。

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姫路藩江戸上屋敷

9110坪

千代田区大手町1丁目

 

 

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白山通りを跨いでの敷地になります。

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播磨姫路藩江戸中屋敷

21623坪

文京区千石1丁目

 

 

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今は銀杏八幡宮という祠があります

姫路藩江戸蔵屋敷

11368坪

日本橋牡蠣殻町1丁目

奥陸守山藩 江戸屋敷跡 松平大学頭

守山藩は、水戸藩支藩水戸藩の分家)として徳川頼房の4男頼元が2万石で福島県田村郡に転封しました。以前は常陸国額田藩2万石でしたが5代将軍徳川綱吉の命により新知行地として守山藩2万石が与えられました。額田の地は本家水戸藩に返されました。藩主は江戸務めとして、小石川の藩邸に留まり国元には戻らず、

陣屋を設けて代官が取り締まる形だそうです。

2代藩主頼貞公は、尾張藩徳川宗春公の蟄居を伝える使者になっております。

守山藩では代々男系が続き、高松松平家、府中松平家に養子を送っており頼貞の血筋で続いています。

戊辰戦争では奥州列藩同盟に加わりましたが戦わず降伏したそうです。

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教育の森公園の一角が屋敷跡地になってます。f:id:yoshitugu1967:20210417094048j:image

2万石とは思えない敷地でした。

森山藩江戸上屋敷

文京区大塚2丁目

14300坪

 

越後三日市藩 江戸屋敷跡 柳沢弾正少弼

大和郡山藩、柳沢吉保の五男時睦(ときちか)で支藩として越後三日市に一万石で立藩しました。主に江戸城、大阪、駿府の警護、日光祭礼奉行など江戸務めで活躍していました。小藩なうえ藩主が江戸勤めとあって財政は火の車で破綻寸前だったそうです。文政年間には財政再建を試みるが失敗してさらに悪化してしまいます。幕末には安政の大地震での藩邸復旧事業、朝廷に対しての費用、8代藩主柳沢徳忠(のりただ)の家督相続の費用で破綻寸前になってしまいました。ちなみに徳忠公が最後の藩主でこの方だけ藩領に入ったそうです。他の藩主藩は江戸務めで藩領に入ってないとの事です

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江戸時代の地図

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現代の地図

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今は住宅街にてなってました。

三日市藩江戸上屋敷

3697坪

台東区小島1丁目

 

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三日市立江戸中屋敷

豊島区巣鴨2丁目

2900坪

 

伊勢津藩 江戸屋敷跡 藤堂和泉守

伊勢津藩は、藤堂高虎が22万石で入り、大坂の陣など武功ヲ重ね32万3千石までの大大名になりました。2代藩主藤堂高次が隠居の際、3代高久に次男、高道に支藩として5万石(久居藩)を与え最終的に27万950石に落ち着きました。

上屋敷跡がある神田和泉町は高虎の和泉守から神田和泉町となったそうです。

地震、天災、度重なる支藩からの養子で財政は悪化して、10代藩主高兌(たかさわ)が倹約、植林、養蚕、福祉政策などで立て直しました。

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現代の地図になります

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江戸時代の地図になります

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和泉小学校から1号までが敷地になってます。

津藩 江戸上屋敷

15000坪

千代田区神田和泉町1丁目

 

 

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線路を跨いでの敷地になってます。激しい近代国家の変化ですね、自分も現地できて驚きました。

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武家屋敷の見る影ない変化見事な住宅地になってます。

津藩江戸下屋敷

30168坪

文京区 駒込4丁目

藤堂和泉守

32万3950石