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播磨姫路藩 江戸屋敷跡 酒井雅楽頭

姫路は初めは守護赤松氏柄納めていましたが戦国時代に入って次第に弱体化し、赤松支流の小寺氏の勢力下に入り姫路城は小寺氏重臣黒田氏が居城しました。織田氏が中国地方に目を向け、羽柴秀吉公が姫路城に来た時黒田氏は足掛かりとして城を差し出して貢献したが城は返されず変わって北政所の兄木下家定が2万5千石で入った。関ヶ原池田輝政が播磨一国52万石で入り姫路藩が出来ました。その時出来た今の姫路城が、後に入った藩主達に多大な維持費となって財政の足を引っ張っていきました。1617年藩主が幼いという事で本多忠政が15万石で入封しましたが1639年奥平松平家が15万石で入封し嫡子が幼いということで越前松平家が15万石で入封して藩主が幼いという事で榊原氏が入封し、のち成人した越前松平家が入封しましたが高田藩のお家騒動に巻き込まれ不手際にて減俸蟄居となり本多氏が入封しましたが(藩主年少の為)1704年再び榊原氏が入封しました。しかし8代藩主政岑(まさみね)公が吉宗公の質素倹約令を無視して遊郭通い見受けなどで、将軍の怒りをかい蟄居、重臣尾崎富右衛門による懸命な嘆願により改易は免れ懲罰的な転封で終わり越前松平家が再び入封して8年後藩主幼少の為酒井氏が入封しました。

酒井氏になるまで数々の大名家が入れ替わりたち代わり目まぐるしく変わっていました。主に幕府の重臣をここから輩出し、譜代、親藩が入っていました。酒井氏も三河からの譜代で老中、大老を出した名門になり1741年に入封しました。石高より実入が良いと転封を目論んでいましたが実際は飢饉、台風、水害、重税、一揆など、石高に見合わないお城の維持などより、財政は悪化してしまいます。

幕末、鳥羽伏見で慶喜公と共に行動した為朝敵対象とされました。1月17日に無血開城し、姫路は、岡山藩に占領されました。

徳川慶喜公が謹慎したと同時に忠績(ただしげ)忠惇(ただとし)公達も恭順し降伏しました。

しかし5月5日忠績公が江戸の大総督府に酒井家は徳川の臣という事で自ら所領没収を願い出たといういきさつがあります。

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今は大手町オフィスビルになってます。

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姫路藩江戸上屋敷

9110坪

千代田区大手町1丁目

 

 

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白山通りを跨いでの敷地になります。

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播磨姫路藩江戸中屋敷

21623坪

文京区千石1丁目

 

 

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今は銀杏八幡宮という祠があります

姫路藩江戸蔵屋敷

11368坪

日本橋牡蠣殻町1丁目