歴史ウォーカー

歴史好きの方の旅サポート

信濃高遠藩 江戸屋敷跡 内藤駿河守

高遠の地は戦国時代諏訪氏、高遠頼継が納めていましたが武田氏に攻められ没落したのち信玄の5男、保科盛信が納め高遠城主になりました。1582年甲州征伐が始まると次々と信濃の武田勢は、織田軍に寝返り高遠の保科氏だけは果敢に奮闘し、自害し落城しました。これにて武田勢は、総崩れとなり3月11日天目山にて勝頼公が自害し武田氏は、滅亡しました。その3ヶ月後本能寺の変にて徳川、後北条、上杉による旧武田領の争奪天正壬午の乱が起こり保科氏が内藤氏を後ろ盾に高遠城を奪還しました。そして後北条と、徳川で、旧織田領の争奪戦には徳川方につき高遠城としての地位を安堵したいきさつがあります。着々と徳川の下で武功を上げて嗣子がいなかった為秀忠の隠し子幸松君を養子とし育て、後の保科正之公となり、家光公が将軍となると出羽山形藩20万石の加増移封となり変わりに鳥居氏が統治し、最後に内藤氏が3万3千石で1691年に入封しました。

1714年江島生島事件で、江島を預かった藩で、

2代藩主内藤頼卿(よりのり)公から藩財政は悪化して5代藩主長好公は幼少ながら花火見物、鷹狩、遠乗りなどして民に負担をかけ諸経費もかなりの物にはなりました。7代藩主頼寧(よりやす)公は産業奨励、学問奨励、新田開発、藩直轄の桑園経営などで藩財政の改革を進めある程度の結果は出た模様です。島津斉彬、藤堂家など多数の大名とも交際があり日本の軍備の遅れを痛感して西洋式の軍備を藩内で練習していたそうです。幕府では若年寄の役職をして1841年若年寄を辞任、1859年に隠居し、七男頼直公に家督をゆずりました。戊辰戦争では新政府軍に入り北越会津戦争に参戦しました。

f:id:yoshitugu1967:20210418112716j:image

高遠藩 内藤駿河守江戸上屋敷

3630坪

千代田区神田神保町

 

f:id:yoshitugu1967:20210502122354j:image

高遠藩下屋敷跡(新宿御苑)