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陸奥泉藩 江戸屋敷跡 本多越中守

本多越中

陸奥泉藩 (福島)2万石

徳川4天王乃一人本多忠勝の流れを組む分家になる。本多忠籌(ただかず)の時藩の財政が圧迫し倹約令を出して財政を立て直したことで松平定信にみそめらら老中格まで出世したそうです。

それにより登城の際槍に赤玉を付けて登城を許されたと言う話が有りますが槍一本で戦国をのし上がった御先祖をあやかってこの上ない誉だったでしょう。

5代藩主本多忠徳(ただのり)の時代において藩校、汲深館が設立され文武奨励、藩風の一新、文化の興隆が行われた。

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今は楠公レストハウスになってます。

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向かいに楠木正成公の銅像が有ります。

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泉藩江戸上屋敷

皇居外苑 日比谷堀辺り

4425坪

 

 

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泉藩中屋敷跡 向かいに赤坂氷川神社⛩があります。

港区赤坂8丁目

2900坪

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氷川神社の前になります

 

 

 

越後高田藩 榊原江戸屋敷跡

徳川四天王榊原康政(榊原式部大輔)の流れをくみ徳川吉宗の時代、姫路藩主榊原政岑(まさみね)が遊郭遊びなどで怒りをかい蟄居、姫路から越後高田藩15万石(新潟県上越市)に移されました。高田藩3代藩主榊原政令(まさのり)公が藩政を継承し、領内の温泉掘り出し、藩士宅に果樹園の植樹推進、産業奨励などでは藩政を立て直した明君がいました。明治維新になり、最初新政府軍、旧幕府軍曖昧にしてましたが、新政府軍として先発を務めました。会津が降伏し高田藩預かりになった時、新政府からの支給が少なく本藩から補い手厚くもてなしたそうです。

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江戸時代の地図上なります

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現代の地図になります

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千代田通りから白山通りにかけての敷地になります。今はオフィスビルになってます。

高田藩上屋敷跡 神田神保町

7150坪

 

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江戸時代の地図になります

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現代の地図になります

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今は旧岩崎庭園の一部になってます。

高田藩中屋敷跡(旧岩崎邸)

台東区 池之端1丁目

18251坪

高田藩下屋敷跡 江東区牡丹3丁目

6700坪

 

高田藩 屋敷跡

3797坪

大島4丁目

 

加賀大聖寺藩 江戸屋敷跡 松平飛騨守

加賀藩前田家の支藩3代前田利常が隠居の際、幕府に願い出て認められた藩になります。

藩祖は、前田利治(松平飛騨守)となる。母が徳川秀忠の娘珠姫になる。当初7万石から始まり後10万石になる。こちらも本家からの借地で、5762坪になる上屋敷です(母が将軍の娘となると簡単に支藩も許されるのですね)

3代藩主利直公が藩主になった時、弟の利昌(としまさ)公に1万石割いて大聖寺新田藩を立藩したがわずが18年で利昌公が織田秀親を殺害するという乱心でお取り潰しになり後大聖寺藩に返還されました。

9代藩主利之公が新田開発、本家からの支援などで7万石から10万石に改正し300諸侯最大の陣屋になりました。

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大聖寺上屋敷跡(東京大学附属病院の一角)

5762坪

 

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大聖寺中屋敷跡 4641坪閑静な住宅地になってました。

文京区池之端2丁目

 

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大半は住宅街になってますが僅かに庭園らしい須藤公園が残ってます。

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休日は子供達が和んでいます。カッパが住んでるという伝説もあります。

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人口の滝など大名屋敷の庭園を思わせます。

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大聖藩下屋敷 文京区千駄木(須藤公園)

10000坪

 

本妙寺 慈眼寺 (東京 豊島区)

当山は、徳栄山といい徳川家が栄えるようにとの願いでつけられたそうです。

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明暦の大火の火元と言われていますがもう一つ隣の大名屋敷からの出火という話があり、多額のお布施がその大名屋敷から送られてたそうです。この火災です天守閣、武家屋敷、町がほぼ焼失し新たな火災を考えた町造りをしました。

その時会津藩、保科正行公が「もはや天守閣は無用の長物」といい、天守閣を造らず「武断政治」から「文治政治」に変わったという事を天下に示しました。

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久世大和守の墓 このお寺を建てるのに人力した殿様です。関宿藩5万石

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町奉行 遠山景元の墓

 

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森山栄之助(江戸時代の通訳)の墓

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天野宗歩(将棋の棋聖戦の由来人)の墓

アクセス 

豊島巣鴨5丁目

慈眼寺f:id:yoshitugu1967:20210411201525j:image

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齋藤鶴磯(水戸藩儒学者)の墓

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芥川龍之介(文学者)の墓

四角い石のサイズは、普段使っている座布団のサイズ鳥居同じサイズだそうです。

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司馬江漢(江戸時代の絵師、蘭学者)の墓

 

 

 

吉祥寺(東京 文京区)

太田道灌江戸城開設の時、和田倉付近の井戸から吉祥と刻印した金印を見つけこれを瑞祥して西の丸に健立しました。江戸時代になり明暦の大火などで今の文京区に建物がたてららたそうです。

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数々の旗本、大名、著名人画像眠る菩提寺となっております。

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二宮尊徳の墓

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江戸南町奉行 鳥居甲斐守耀蔵の墓

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八百屋お七の塚

 

 

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分家前田家の墓

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榎本武揚の墓(幕府海軍副総裁)

など数々の旗本、大名、著名人が眠るお寺になります。

 

越中富山藩 江戸屋敷跡 松平大蔵大輔

加賀前田家の支藩として3代前田利常が隠居の時幕府に願い出て認められた藩になります。

利常の次男利次(松平大蔵大輔)が藩祖になり10万石の藩主になりました。(母は徳川秀忠の娘珠姫)敷地は幕府からでは無く本藩からの借地になり11088坪あります。2代藩主正甫(まさとし)が薬売りを始め財政を潤したといういきさつがあります。

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江戸時代の地図になります

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現代の地図になります。

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奥の建て物が富山藩になります。

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文京区本郷7丁目(東京大学附属病院)

富山藩上屋敷10088坪

 

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もはや中屋敷の跡はなく住宅街になってます

富山藩中屋敷

敷地1475坪アクセスは文京区池ノ端2丁目

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今やオフィスビルが立ち並ぶ敷地になりました。

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富山藩下屋敷跡 台東区北上野2丁目

10000坪

1844〜1855年の僅か10年余り抱え屋敷を持ってました。豊島区南大塚2丁目

常陸水戸藩 江戸屋敷跡 水戸中納言

徳川御三家の一つ水戸、藩祖は徳川頼房(水戸中納言)石高は、公称35万石(3代綱豊が改正)で、実際はそれより少ない、成立時は、25万石、江戸務めで物価の高い江戸と領地の二重化、幕府の軍役は石高により決められて財政は悪化してしまいました。2代藩主光圀公はTVでも有名ですが実際は、漫遊は、しておらず鎌倉、江戸、水戸、周辺しか行っておらず大日本史編纂に力を入れて儒学、勤皇(水戸学)を持って「もし徳川と天皇が戦にはなったなら迷う事無く天皇につけ」という家訓がありそれが幕末までつながり尊王攘夷など井伊暗殺などあったのでしょう。水戸からは将軍は、出せず、副将軍として常に江戸におりサポートする役(ただ一人慶喜公のみ)に務めました。

 

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江戸時代の地図になります

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現代の地図になります。

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ホテル、ドームが跡地になってます。

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コロナでしばらく休業になってます。

江戸上屋敷 調査中(後楽園、東京ドーム)

101831坪

江戸中屋敷主に隠居した殿様、成人した世継ぎが住んでいました。

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今は東京大学農学部、弥生キャンパスこの辺りが水戸藩中屋敷になります。

敷地は643323坪ほどあり藩邸から土器が見つかり(弥生2-11に石碑有り)弥生土器と名付けられたそうです。

下屋敷調査中。(墨田公園) 23110坪

菩提寺は鎌倉、英勝寺、茨城県 常福寺