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伊予松山藩 江戸屋敷跡 松平讃岐守

1600年関が原の戦いで東軍に味方した加藤嘉明公が20万石で立藩、1627年陸奥国会津藩42万石に加増転封変わって蒲生忠知公が24万石で入封、1634年嗣子(しし)が居なく蒲生氏は、断絶し、代わり1635年松平定行が15万石で入封し明治維新まで続きました。1703年2月には、幕府からの命で赤穂浪士の10名を預かり江戸中屋敷切腹したのは有名であります。

江戸時代初期は、比較的経済は、豊かでしたが1661~1680年は、洪水、干ばつの飢饉が続きそれ以後は財政難が続きました。特に5代定英の時の享保の大飢饉の時は、死者が3500人を数えました。しかし藩士には1人の死者もでず領民への荷政を咎められ謹慎処分になりました。

このような、財政難の中12代藩主勝喜(かつよし)公は、落雷により焼失した天守を再建しています。13代勝成公は勝海舟の設計した外国船に対抗する砲台の築造や、警備などをおこないました。幕末は、親藩という立場から長州征討で先方を努め領民からの略奪、暴行、忙殺などが後の冷遇される原因になりました。14代定昭公は、藩主になるや老中に就任しましたが大政奉還の後辞職しています。1868年鳥羽伏見の戦いでは梅田方面の警備に当たり将軍慶喜公が江戸に引き揚げると聞きすぐさま帰国しました。この戦いにより朝敵として追討され城内では先代藩主勝成公の恭順派と定昭公の抗戦派が対立しましたが1月27日戦わず城を開け渡し土佐藩の占領下に置かれました。5月12日財政難の中15万両を朝廷に献上し、藩主定昭公は、蟄居、重臣も、蟄居、更迭、先代藩主勝成公を再勤させる事で松山城は返還されました。

またその後明治政府から松平から旧姓の久松に復する命が降り明治4年廃藩置県により松山県となり、後、石鉄県を経て、愛媛県編入されました。

 

松山藩江戸上屋敷

10587坪

港区西新橋3丁目

 

松山藩江戸中屋敷

20997坪

港区三田2丁目

 

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大隈公園になります

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早稲田大学大隈講堂になります。

松山藩江戸下屋敷

6986坪

新宿区戸塚町

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松山藩江戸下屋敷

26109坪

品川区戸越2丁目(戸越公園)