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近江彦根藩 江戸屋敷跡 井伊掃部頭

1600年の関ヶ原にて勝利した徳川軍が徳川四天王井伊直政公を上野高崎12万石から18万石加増して石田三成公の居城佐和山に入封させました。直政公は、三成公の佐和山城を嫌い琵琶湖の湖岸国磯山に城をを計画しましたが着手前1602年戦傷で亡くなりました。嫡子直継(直勝)公が相続し、1606年に彦根城を完成し入城しました。しかし病弱な直継公は大阪の陣に参戦出来ず弟の直孝公が代わりに参陣して活躍し、井伊家の2代藩主になりました。直継公は名を直勝と改めて安中藩3万石を分知され移封されました。当初直継公が藩主だった頃藩内の統率が取れず当主としての技量が無いと家康公に見られて病気を理由として藩主交代当初なったいきさつがあります。直孝公は、幕府の中核を担って出世し35万石の大大名にまでなり譜代大名のなか一度の移封も無く唯一幕末をを迎えました。井伊家は4代5度大老という役職に付き譜代でも筆頭の家柄になりました。中でも幕末の井伊直弼公は特に有名で13代将軍家定公の継承問題で、南紀派に属し一橋派と対立し家茂公の14代将軍に貢献しました。

1858年大老に就任し、勅許(ちょっきよ)を得ず日米修好通商条約に調印し、これを口実に詰問(きつもん)した一橋派を隠居させ、伏せて言論人達の死罪等をを含む安政の大獄を行った。

結果反発を招き1860年桜田門外の変にて水戸浪士に暗殺されました。幕府には病死として出し直憲(なおのり)公が10万石減封にて相続しました。1864年禁門の変での貢献にて旧領のうち3万石は回復しましたが天狗党の乱、天誅組の変、長州征伐、など幕府の軍事活動にも参加しましたが旧式の軍備、軍制により大敗を喫してその時幕府は、一橋派が実権を握り報われ無い扱いをされ、これがのちに新政府支持に繋がるきっかけになったのでしょう。

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彦根藩上屋敷

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素晴らしい庭園です

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中に憲政記念館があります

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彦根藩上屋敷

19815坪

千代田区永田町1丁目

 

彦根城中屋敷

14175坪

千代田区紀尾井町(ホテルニューオオタニ)

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明治神宮境内が屋敷地になります

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当時の庭園の名残りがありますね

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清正井戸パワースポットとして有名です

彦根藩下屋敷

渋谷区

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彦根藩屋敷

18645坪

新宿区早稲田鶴巻町