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陸奥岩城平藩 江戸屋敷跡 安藤長門守

浜通り南部は、平安時代から岩城氏が支配して関ヶ原で西軍に着いた為に領地を没収され代わりに鳥居忠政公が10万石で入城しました。父元忠公は関ヶ原前の伏見城での戦いにて家康公が3000の兵を置くと言われた所大阪方が大軍できた場合火をかけて討ち死にする為、一人でも多くの家臣を城からお連れ下さいと答えて家康公を大いに喜ばさせ深夜まで別れの盃を交わしたそうです。1800人で13日の攻防の末討ち取られましたが三河武士の鑑と称賛され最後になった伏見城の血染めの畳は、江戸城の伏見櫓の階上に置き訪れた大名達に披露され、床板は、血天井として京都の養源院、宝泉院(ほうせんいん)、正伝寺(しょうでんじ)、源光庵、瑞雲院、宇治の興聖寺に今も伝えられています。後にこの勲功が、改易を逃れ高遠藩3万石で立藩する事になりました。次に内藤政長公が7万石で入城しました。次に井上氏が3万7千石で、1747年から1758年の約10年間入城しました。次に入城したのが安藤信成公が7万石で入城、入城後藩校施政堂を創設し、藩士の子弟遠を教育して明治4年まで続きました。歴代藩主で有名な安藤信政公は、桜田門外ノ変の後、老中になり幕政を主導しましたが坂下門外の変で失脚強制隠居の上4万石に所領が削減されました。(背中に刀傷遠を受け一部の幕閣から武士として背中に傷を受けるとは武士の風上に置けないという批判、アメリカのタウンゼント、ハリスとの賄賂問題、女性問題など)

戊辰戦争では佐幕派としての地位を貫き奥羽越列藩同盟入城加入して新政府軍と戦い敗北し磐城平城は、消失しました。

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首都高速箱崎JCの辺りになります

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岩城平藩 上江戸屋敷

5445坪

中央区日本橋浜町3丁目

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出光のガソリンスタンドがありました

岩城平藩 中屋敷

3237坪

中央区 日本橋牡蠣殻町1丁目

 

 

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御茶ノ水女子大学になります

 

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筑波大学附属中学部校にてなります

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岩城平藩江戸下屋敷

51693坪

文京区大塚1.2丁目