出羽久保田藩 江戸屋敷跡 佐竹右京大夫
久保田藩は別名秋田藩とも呼ばれて秋田県全域にまたがっています。戦国時代は、秋田氏、六郷氏、戸沢氏、小野寺氏、などが治めていましたが、関ヶ原後、小野寺氏は改易、他は常陸国へ転封、代わって関ヶ原にて曖昧な態度ヲとった佐竹義宣(よしのぶ)公が常陸国54万石から奥州秋田20万石に転封しました。常陸国の時の膨大な家臣団を抱えて財政は、慢性的に困窮を極めて藩札を発行して俗に言う佐竹騒動(銀札事件)など政の乱れ領民の一揆が勃発しました。
3代藩主義処(よしずみ)公は寝食忘れ、時には吐血しながらも藩政改革に没頭しましたが立て直す前に亡くなりましたが秋田史館を創設藩政改革に一生を捧げた藩主でした。8代藩主義敦(よしあつ)公は、画家として名高く号は曙山、当時狩野派から絵を学び西洋画と日本画を取り入れた秋田蘭画を家臣小田野直武と共に創設しました。9代藩主義和公が創設しました明徳館は、それまで家柄で藩の役職が決められてましたが明徳館での成績で、下級武士でも役職が付けるという画期的なシステムで、現代の大学のようにテーマを持って議論し合う形を持ち自論を組み立てそれを主張するような人材をつくりました。明治維新では始め奥羽越列藩同盟にて入りましたが新政府側に付き列藩同盟側に攻撃されるも佐賀藩兵の助けもありなんとか持ち堪えました。これは、秋田県民話3番にも記され、旧南部領の亀田藩辺りではその部分が回避されてます。
江戸時代の地図
現代の地図
佐竹商店街になります
この看板探すのにだいぶかかりました。
16220坪
8614坪
亀戸1丁目
屋敷内に祀られてました。
久保田藩抱屋敷地跡
20537坪
荒川区西日暮里(開成中辺り)
佐竹右京大夫
25万5800石