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加賀大聖寺藩 江戸屋敷跡 松平飛騨守

加賀藩前田家の支藩3代前田利常が隠居の際、幕府に願い出て認められた藩になります。

藩祖は、前田利治(松平飛騨守)となる。母が徳川秀忠の娘珠姫になる。当初7万石から始まり後10万石になる。こちらも本家からの借地で、5762坪になる上屋敷です(母が将軍の娘となると簡単に支藩も許されるのですね)

3代藩主利直公が藩主になった時、弟の利昌(としまさ)公に1万石割いて大聖寺新田藩を立藩したがわずが18年で利昌公が織田秀親を殺害するという乱心でお取り潰しになり後大聖寺藩に返還されました。

9代藩主利之公が新田開発、本家からの支援などで7万石から10万石に改正し300諸侯最大の陣屋になりました。

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大聖寺上屋敷跡(東京大学附属病院の一角)

5762坪

 

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大聖寺中屋敷跡 4641坪閑静な住宅地になってました。

文京区池之端2丁目

 

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大半は住宅街になってますが僅かに庭園らしい須藤公園が残ってます。

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休日は子供達が和んでいます。カッパが住んでるという伝説もあります。

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人口の滝など大名屋敷の庭園を思わせます。

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大聖藩下屋敷 文京区千駄木(須藤公園)

10000坪

 

本妙寺 慈眼寺 (東京 豊島区)

当山は、徳栄山といい徳川家が栄えるようにとの願いでつけられたそうです。

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明暦の大火の火元と言われていますがもう一つ隣の大名屋敷からの出火という話があり、多額のお布施がその大名屋敷から送られてたそうです。この火災です天守閣、武家屋敷、町がほぼ焼失し新たな火災を考えた町造りをしました。

その時会津藩、保科正行公が「もはや天守閣は無用の長物」といい、天守閣を造らず「武断政治」から「文治政治」に変わったという事を天下に示しました。

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久世大和守の墓 このお寺を建てるのに人力した殿様です。関宿藩5万石

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町奉行 遠山景元の墓

 

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森山栄之助(江戸時代の通訳)の墓

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天野宗歩(将棋の棋聖戦の由来人)の墓

アクセス 

豊島巣鴨5丁目

慈眼寺f:id:yoshitugu1967:20210411201525j:image

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齋藤鶴磯(水戸藩儒学者)の墓

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芥川龍之介(文学者)の墓

四角い石のサイズは、普段使っている座布団のサイズ鳥居同じサイズだそうです。

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司馬江漢(江戸時代の絵師、蘭学者)の墓

 

 

 

吉祥寺(東京 文京区)

太田道灌江戸城開設の時、和田倉付近の井戸から吉祥と刻印した金印を見つけこれを瑞祥して西の丸に健立しました。江戸時代になり明暦の大火などで今の文京区に建物がたてららたそうです。

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数々の旗本、大名、著名人画像眠る菩提寺となっております。

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二宮尊徳の墓

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江戸南町奉行 鳥居甲斐守耀蔵の墓

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八百屋お七の塚

 

 

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分家前田家の墓

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榎本武揚の墓(幕府海軍副総裁)

など数々の旗本、大名、著名人が眠るお寺になります。

 

越中富山藩 江戸屋敷跡 松平大蔵大輔

加賀前田家の支藩として3代前田利常が隠居の時幕府に願い出て認められた藩になります。

利常の次男利次(松平大蔵大輔)が藩祖になり10万石の藩主になりました。(母は徳川秀忠の娘珠姫)敷地は幕府からでは無く本藩からの借地になり11088坪あります。2代藩主正甫(まさとし)が薬売りを始め財政を潤したといういきさつがあります。

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江戸時代の地図になります

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現代の地図になります。

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奥の建て物が富山藩になります。

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文京区本郷7丁目(東京大学附属病院)

富山藩上屋敷10088坪

 

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もはや中屋敷の跡はなく住宅街になってます

富山藩中屋敷

敷地1475坪アクセスは文京区池ノ端2丁目

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今やオフィスビルが立ち並ぶ敷地になりました。

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富山藩下屋敷跡 台東区北上野2丁目

10000坪

1844〜1855年の僅か10年余り抱え屋敷を持ってました。豊島区南大塚2丁目

常陸水戸藩 江戸屋敷跡 水戸中納言

徳川御三家の一つ水戸、藩祖は徳川頼房(水戸中納言)石高は、公称35万石(3代綱豊が改正)で、実際はそれより少ない、成立時は、25万石、江戸務めで物価の高い江戸と領地の二重化、幕府の軍役は石高により決められて財政は悪化してしまいました。2代藩主光圀公はTVでも有名ですが実際は、漫遊は、しておらず鎌倉、江戸、水戸、周辺しか行っておらず大日本史編纂に力を入れて儒学、勤皇(水戸学)を持って「もし徳川と天皇が戦にはなったなら迷う事無く天皇につけ」という家訓がありそれが幕末までつながり尊王攘夷など井伊暗殺などあったのでしょう。水戸からは将軍は、出せず、副将軍として常に江戸におりサポートする役(ただ一人慶喜公のみ)に務めました。

 

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江戸時代の地図になります

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現代の地図になります。

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ホテル、ドームが跡地になってます。

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コロナでしばらく休業になってます。

江戸上屋敷 調査中(後楽園、東京ドーム)

101831坪

江戸中屋敷主に隠居した殿様、成人した世継ぎが住んでいました。

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今は東京大学農学部、弥生キャンパスこの辺りが水戸藩中屋敷になります。

敷地は643323坪ほどあり藩邸から土器が見つかり(弥生2-11に石碑有り)弥生土器と名付けられたそうです。

下屋敷調査中。(墨田公園) 23110坪

菩提寺は鎌倉、英勝寺、茨城県 常福寺

加賀金沢藩 江戸屋敷跡 松平加賀守

前田利家(松平加賀守)が藩祖となり石高102万7000石と外様大名一番の石高です。徳川家と姻戚関係が強く準親藩として扱われ松平姓、葵紋を許されていました。伺候席(しこうせき)も御三家など御家門が詰める大廊下で諸大名とは別格な待遇で、東大赤門として有名な赤門は13代藩主斉泰公と11代将軍家斉興の21女溶姫のは婚礼で造られたのは有名で、上屋敷として殿様、家族が住んでいました。4代藩主綱紀公は学問を推進し明君と呼ばれ兼六園も綱紀公が造りました。

 

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加賀藩上屋敷

敷地は88482坪あり菩提寺は文京区、向丘 長元寺、下谷 広徳寺になります。

アクセス

文京区本郷

 

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前田家中屋敷 

主に隠居した殿様、成人したお世継ぎが住んでいました。今は住宅地になってました。

文京区駒込6丁目

20660坪

 

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前田家下屋敷として別荘、参勤交代の時の着替えなどで使わられていました。当時敷地面積は218000坪程有りましたが今は僅か公園の一角になってました。

加賀藩下屋敷

アクセス

板橋区加賀

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深川黒江蔵屋敷跡(深川東京モダン館辺り)

こちらの蔵屋敷に年貢米など保管していたそうです。

2668坪

富岡八幡宮(東京 江東区)

今回ば深川富岡八幡宮のご紹介です。

江戸時代初期(1627年)に創設されたお寺で、

勧進相撲発祥の地になって相撲関係の石碑など多く置かれています

アクセスは門前仲町駅から徒歩5分

木場方面になります。

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横綱野石碑になります

富岡八幡宮の奥にあります

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数々の横綱の名前が彫られてます

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大関の石碑になります

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富岡八幡宮の神輿になります。

昔の神輿は火災にて消失して新しく作られた神輿になります

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昭和天皇が大空襲にて視察した地になります。

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近くには深川不動尊、法乗院、清澄白河に行くと松平定信のお墓がある霊厳寺、芭蕉記念館などあります。