歴史ウォーカー

歴史好きの方の旅サポート

伊予新谷藩 江戸上屋敷跡 加藤大蔵少輔

新谷藩は、大洲藩

支藩として1623年に立藩いたしました。当初兄泰興(やすおき)公とのお家騒動が有りましたが幕府の采配で弟直泰(なおやす)公が新谷藩1万石として立藩して決着しました。当初藩内分知は陪臣(ばいしん)扱いでありますが新谷藩は、唯一幕府から大名と認められた藩でした。江戸時代後期になりますと、火災、水害などで、藩財政は、困窮を極めて本家大洲藩が藩政を執行しました。色々調べてみると初代直泰公とお家騒動などして余り関係が良くないと思い調べてみると直泰公に後継ぎが無く大洲藩から2代、4代と養子として藩主になった経緯が分かりこれが大きいのかと思われます。

f:id:yoshitugu1967:20210501063614j:image

今は一部金竜学校になってます。

f:id:yoshitugu1967:20210501063814j:image

新谷藩 江戸上屋敷

4189坪

台東区入谷1丁目

伊予大洲藩 江戸屋敷跡 加藤於菟三郎

江戸時代初期は藤堂高虎公の所領であり大洲藩主として高虎公の養子、丹羽長秀の子藤堂高吉公が在城しました。1608年高虎公が伊勢国津藩藩に転封になり脇坂が5万5千石で入封し大洲藩が立藩しました。1617年加藤貞泰公が6万石で入封し1623年貞泰公の死去によりお家騒動になり幕府により嫡子泰興(やすおき)公が5万石、弟直泰公が1万石で落ち着きました。藩政でも軍事強化、幕府にも江戸城大阪城の普請事業、蒲生氏、山崎氏、生駒氏の改易による城の在番など行いました。備中国足守藩主、木下利当(としまさ)公から淡路流槍術を学び達人と称されました。大洲藩は、勤皇の気質が高く幕末は、早くから勤皇で藩論は一致してました。小藩ながら鳥羽伏見では活躍して坂本龍馬率いる海援隊の蒸気船いろは丸は、大洲藩の船で貸与してました。余談ですがこの屋敷の女中部屋から8両程鼠小僧にお金が盗まれたという経緯が、当時ありました。

f:id:yoshitugu1967:20210430115919j:image

僅かながら昔の庭園の名残りが見えます。

f:id:yoshitugu1967:20210430120041j:imagef:id:yoshitugu1967:20210430120056j:image

大洲藩江戸上屋敷

7254坪

台東区台東4丁目(御徒町公園)

 

大洲藩江戸下屋敷

3071坪

台東区寿町3丁目

 

近江仁正寺藩 江戸屋敷 市橋下総守

戦国時代に蒲生氏が、本拠地として蒲生氏郷を輩出した日野城は、関ヶ原の戦いで領主の長束政家の没落と共に廃城となりました。1620年市橋下総守長政公が2万石を与えられて、かつての日野城跡に陣屋を建て仁正寺藩を立藩しました。1622年幕命により2000石市橋長吉公に分与し、政信公が藩主になる時、弟の政直興に1000石分与し、所領1万7千石になりました。

5代藩主直挙(なおたか)公は三池立花氏からの婿養子で吉宗公から認められた教養人と言われましたが特筆した事はしなかったみたいです。

最後の藩主長和公は、ペリー来航から国内の情勢が乱れ軍備増強の必要があると、火薬の製造を始め、藩を西大路藩と改名しました。

1867年12月22日上洛し新政府を支持することを表明して明治天皇の守護、京都の警備など務めました。

f:id:yoshitugu1967:20210506235333j:image

f:id:yoshitugu1967:20210506235349j:image

仁正寺藩江戸上屋敷 

2815坪

千代田区神田松下町

 

仁正寺藩下屋敷

5600坪

亀戸5丁目(亀戸南公園)

 

近江彦根藩 江戸屋敷跡 井伊掃部頭

1600年の関ヶ原にて勝利した徳川軍が徳川四天王井伊直政公を上野高崎12万石から18万石加増して石田三成公の居城佐和山に入封させました。直政公は、三成公の佐和山城を嫌い琵琶湖の湖岸国磯山に城をを計画しましたが着手前1602年戦傷で亡くなりました。嫡子直継(直勝)公が相続し、1606年に彦根城を完成し入城しました。しかし病弱な直継公は大阪の陣に参戦出来ず弟の直孝公が代わりに参陣して活躍し、井伊家の2代藩主になりました。直継公は名を直勝と改めて安中藩3万石を分知され移封されました。当初直継公が藩主だった頃藩内の統率が取れず当主としての技量が無いと家康公に見られて病気を理由として藩主交代当初なったいきさつがあります。直孝公は、幕府の中核を担って出世し35万石の大大名にまでなり譜代大名のなか一度の移封も無く唯一幕末をを迎えました。井伊家は4代5度大老という役職に付き譜代でも筆頭の家柄になりました。中でも幕末の井伊直弼公は特に有名で13代将軍家定公の継承問題で、南紀派に属し一橋派と対立し家茂公の14代将軍に貢献しました。

1858年大老に就任し、勅許(ちょっきよ)を得ず日米修好通商条約に調印し、これを口実に詰問(きつもん)した一橋派を隠居させ、伏せて言論人達の死罪等をを含む安政の大獄を行った。

結果反発を招き1860年桜田門外の変にて水戸浪士に暗殺されました。幕府には病死として出し直憲(なおのり)公が10万石減封にて相続しました。1864年禁門の変での貢献にて旧領のうち3万石は回復しましたが天狗党の乱、天誅組の変、長州征伐、など幕府の軍事活動にも参加しましたが旧式の軍備、軍制により大敗を喫してその時幕府は、一橋派が実権を握り報われ無い扱いをされ、これがのちに新政府支持に繋がるきっかけになったのでしょう。

f:id:yoshitugu1967:20210426173813j:image

彦根藩上屋敷

f:id:yoshitugu1967:20210426173855j:image

素晴らしい庭園です

f:id:yoshitugu1967:20210426173933j:image

中に憲政記念館があります

f:id:yoshitugu1967:20210426174141j:imagef:id:yoshitugu1967:20210426174156j:image

彦根藩上屋敷

19815坪

千代田区永田町1丁目

 

彦根城中屋敷

14175坪

千代田区紀尾井町(ホテルニューオオタニ)

f:id:yoshitugu1967:20210502165124j:image

明治神宮境内が屋敷地になります

f:id:yoshitugu1967:20210502165243j:image

当時の庭園の名残りがありますね

f:id:yoshitugu1967:20210502165335j:image

清正井戸パワースポットとして有名です

彦根藩下屋敷

渋谷区

f:id:yoshitugu1967:20210502113026j:image

彦根藩屋敷

18645坪

新宿区早稲田鶴巻町

 

筑後柳川藩 江戸屋敷跡 立花左近将監

柳川藩鎌倉時代から戦国時代末期まで蒲池氏の所領であり次いで龍造寺氏が一時期支配しました、豊臣政権の時立花宗茂公が柳川藩を13万2000石を領してましたが関ヶ原の戦いにて西軍に与して改易にてなりました。変わりまして田中吉政石田三成を捕らえた功により32万5000石を与えられ入封しました。河川改修、新田開発、堤防国構築など尽力しましたが2代藩主忠政公画像若くして没すると無嗣断絶入府より改易となりました。その一つに幕府禁止令のキリスト教を擁護したことが大きいと思われます。

変わりまして立花宗茂が10万9000石で返り咲きました。西軍で以前の領地にかえりざいたのは立花宗茂のみでそれだけ徳川方からも人柄、義にて対しての忠誠心が素晴らしい方と思われます。4代藩主鑑任(あきたか)公が別業御茶屋集景亭(今の立花邸御花)を創設しました。8代藩主鑑寿(あきひさ)公の時代、三池藩主立花種周(たねちか)は、大奥の改革で老中松平定信と対立し敗北し、若年寄を解任、左遷、蟄居となり家督を種善(たなよし)に託しました。三池藩1万4000石は、1816年柳川藩預かりとなりました。

f:id:yoshitugu1967:20210425224538j:image

江戸時代の地図

f:id:yoshitugu1967:20210425224610j:image

現代では地図

f:id:yoshitugu1967:20210425223917j:image

今はオフィス街になってます

f:id:yoshitugu1967:20210425224013j:image

柳川藩上屋敷

16429坪

台東区東上野1丁目

 

f:id:yoshitugu1967:20210430153540j:image

住宅地になってます。

f:id:yoshitugu1967:20210430153556j:image

 

柳川藩下屋敷

12970坪

足立区入谷1丁目

立花左近将

出羽久保田藩 江戸屋敷跡 佐竹右京大夫

久保田藩は別名秋田藩とも呼ばれて秋田県全域にまたがっています。戦国時代は、秋田氏、六郷氏、戸沢氏、小野寺氏、などが治めていましたが、関ヶ原後、小野寺氏は改易、他は常陸国へ転封、代わって関ヶ原にて曖昧な態度ヲとった佐竹義宣(よしのぶ)公が常陸国54万石から奥州秋田20万石に転封しました。常陸国の時の膨大な家臣団を抱えて財政は、慢性的に困窮を極めて藩札を発行して俗に言う佐竹騒動(銀札事件)など政の乱れ領民の一揆が勃発しました。

3代藩主義処(よしずみ)公は寝食忘れ、時には吐血しながらも藩政改革に没頭しましたが立て直す前に亡くなりましたが秋田史館を創設藩政改革に一生を捧げた藩主でした。8代藩主義敦(よしあつ)公は、画家として名高く号は曙山、当時狩野派から絵を学び西洋画と日本画を取り入れた秋田蘭画を家臣小田野直武と共に創設しました。9代藩主義和公が創設しました明徳館は、それまで家柄で藩の役職が決められてましたが明徳館での成績で、下級武士でも役職が付けるという画期的なシステムで、現代の大学のようにテーマを持って議論し合う形を持ち自論を組み立てそれを主張するような人材をつくりました。明治維新では始め奥羽越列藩同盟にて入りましたが新政府側に付き列藩同盟側に攻撃されるも佐賀藩兵の助けもありなんとか持ち堪えました。これは、秋田県民話3番にも記され、旧南部領の亀田藩辺りではその部分が回避されてます。

f:id:yoshitugu1967:20210425064332j:image

江戸時代の地図

f:id:yoshitugu1967:20210425064430j:image

現代の地図

f:id:yoshitugu1967:20210425143006j:image

佐竹商店街になります

 

f:id:yoshitugu1967:20210425143408j:image

この看板探すのにだいぶかかりました。

久保田藩江戸上屋敷

16220坪

台東区台東(佐竹商店街)

 

久保田藩下屋敷

8614坪

亀戸1丁目

 

 

f:id:yoshitugu1967:20210425022315j:image

f:id:yoshitugu1967:20210425022330j:image

 

f:id:yoshitugu1967:20210425143307j:image

屋敷内に祀られてました。

久保田藩抱屋敷地跡

20537坪

荒川区西日暮里(開成中辺り)

佐竹右京大夫

25万5800石

信濃松城藩 江戸屋敷跡 真田信濃守

松城藩は、川中島4郡を領した藩で武田、上杉の戦でも有名な地です。関ヶ原の戦い森忠政公が13万7000石で入封し松平忠輝公が14万石領有してました。ここまでが当時川中島藩と呼ばれてました。1616年松平忠昌興が12万石で入封し、松城藩と呼ばれるようになりました。その後酒井氏、1622年に真田信濃守が13万石で入封しました。3代幸道の相続の時、跡目騒動があり幕府の判決により沼田3万石を信利に分離立藩する事で決着しました。(後に沼田藩は信利公の暴君ぶりにて改易してしまいました)

当初上田からの入府封の際20万両の蓄えがありましたが3代幸道の時、幕府からの手伝普請などで使い果たした上1717年松城城下が大火で見舞われ幕府から1万両の借財にて復興させました。4代信弘公は、質素倹約を旨とし財政は持ち直しましたが5代信安の時水害にあい幕府から1万両借財し、千曲川の河川改修が行われました。8代幸貫(ゆきつら)公松平定信の子で幸弘の孫娘雅姫と婚姻し養子となり幕府老中として天保の改革の一翼を掲げ藩政改革に多くの成果を挙げた明君であります。

明治維新では早くから倒幕で藩内は一致して新政府側に付き軍功をあげました。それにより財政は悪化して松城騒動がおこりました。

f:id:yoshitugu1967:20210514164758j:image

f:id:yoshitugu1967:20210514164840j:image

 

 

信濃松城藩(長野)所領10万石

松城藩上屋敷跡(経済産業省別館)

千代田区霞ヶ関

4958坪

 

f:id:yoshitugu1967:20210413135520j:image

松城藩中屋敷跡(アメリカ大使館宿舎)

4870坪

 

松城藩中屋敷跡(参議員会館)

千代田区 永田町

 

 

 

 

 

松城藩下屋敷

江東区 永代

4273坪

真田信濃

10万石