近江仁正寺藩 江戸屋敷 市橋下総守
戦国時代に蒲生氏が、本拠地として蒲生氏郷を輩出した日野城は、関ヶ原の戦いで領主の長束政家の没落と共に廃城となりました。1620年市橋下総守長政公が2万石を与えられて、かつての日野城跡に陣屋を建て仁正寺藩を立藩しました。1622年幕命により2000石市橋長吉公に分与し、政信公が藩主になる時、弟の政直興に1000石分与し、所領1万7千石になりました。
5代藩主直挙(なおたか)公は三池立花氏からの婿養子で吉宗公から認められた教養人と言われましたが特筆した事はしなかったみたいです。
最後の藩主長和公は、ペリー来航から国内の情勢が乱れ軍備増強の必要があると、火薬の製造を始め、藩を西大路藩と改名しました。
1867年12月22日上洛し新政府を支持することを表明して明治天皇の守護、京都の警備など務めました。
仁正寺藩江戸上屋敷
2815坪
千代田区神田松下町
仁正寺藩下屋敷跡
5600坪
亀戸5丁目(亀戸南公園)
近江彦根藩 江戸屋敷跡 井伊掃部頭
1600年の関ヶ原にて勝利した徳川軍が徳川四天王の井伊直政公を上野高崎12万石から18万石加増して石田三成公の居城佐和山に入封させました。直政公は、三成公の佐和山城を嫌い琵琶湖の湖岸国磯山に城をを計画しましたが着手前1602年戦傷で亡くなりました。嫡子直継(直勝)公が相続し、1606年に彦根城を完成し入城しました。しかし病弱な直継公は大阪の陣に参戦出来ず弟の直孝公が代わりに参陣して活躍し、井伊家の2代藩主になりました。直継公は名を直勝と改めて安中藩3万石を分知され移封されました。当初直継公が藩主だった頃藩内の統率が取れず当主としての技量が無いと家康公に見られて病気を理由として藩主交代当初なったいきさつがあります。直孝公は、幕府の中核を担って出世し35万石の大大名にまでなり譜代大名のなか一度の移封も無く唯一幕末をを迎えました。井伊家は4代5度大老という役職に付き譜代でも筆頭の家柄になりました。中でも幕末の井伊直弼公は特に有名で13代将軍家定公の継承問題で、南紀派に属し一橋派と対立し家茂公の14代将軍に貢献しました。
1858年大老に就任し、勅許(ちょっきよ)を得ず日米修好通商条約に調印し、これを口実に詰問(きつもん)した一橋派を隠居させ、伏せて言論人達の死罪等をを含む安政の大獄を行った。
結果反発を招き1860年桜田門外の変にて水戸浪士に暗殺されました。幕府には病死として出し直憲(なおのり)公が10万石減封にて相続しました。1864年禁門の変での貢献にて旧領のうち3万石は回復しましたが天狗党の乱、天誅組の変、長州征伐、など幕府の軍事活動にも参加しましたが旧式の軍備、軍制により大敗を喫してその時幕府は、一橋派が実権を握り報われ無い扱いをされ、これがのちに新政府支持に繋がるきっかけになったのでしょう。
素晴らしい庭園です
中に憲政記念館があります
19815坪
千代田区永田町1丁目
14175坪
明治神宮境内が屋敷地になります
当時の庭園の名残りがありますね
清正井戸パワースポットとして有名です
渋谷区
彦根藩屋敷
18645坪
新宿区早稲田鶴巻町
筑後柳川藩 江戸屋敷跡 立花左近将監
柳川藩は鎌倉時代から戦国時代末期まで蒲池氏の所領であり次いで龍造寺氏が一時期支配しました、豊臣政権の時立花宗茂公が柳川藩を13万2000石を領してましたが関ヶ原の戦いにて西軍に与して改易にてなりました。変わりまして田中吉政が石田三成を捕らえた功により32万5000石を与えられ入封しました。河川改修、新田開発、堤防国構築など尽力しましたが2代藩主忠政公画像若くして没すると無嗣断絶入府より改易となりました。その一つに幕府禁止令のキリスト教を擁護したことが大きいと思われます。
変わりまして立花宗茂が10万9000石で返り咲きました。西軍で以前の領地にかえりざいたのは立花宗茂のみでそれだけ徳川方からも人柄、義にて対しての忠誠心が素晴らしい方と思われます。4代藩主鑑任(あきたか)公が別業御茶屋集景亭(今の立花邸御花)を創設しました。8代藩主鑑寿(あきひさ)公の時代、三池藩主立花種周(たねちか)は、大奥の改革で老中松平定信と対立し敗北し、若年寄を解任、左遷、蟄居となり家督を種善(たなよし)に託しました。三池藩1万4000石は、1816年柳川藩預かりとなりました。
江戸時代の地図
現代では地図
今はオフィス街になってます
16429坪
台東区東上野1丁目
住宅地になってます。
12970坪
足立区入谷1丁目
立花左近将
出羽久保田藩 江戸屋敷跡 佐竹右京大夫
久保田藩は別名秋田藩とも呼ばれて秋田県全域にまたがっています。戦国時代は、秋田氏、六郷氏、戸沢氏、小野寺氏、などが治めていましたが、関ヶ原後、小野寺氏は改易、他は常陸国へ転封、代わって関ヶ原にて曖昧な態度ヲとった佐竹義宣(よしのぶ)公が常陸国54万石から奥州秋田20万石に転封しました。常陸国の時の膨大な家臣団を抱えて財政は、慢性的に困窮を極めて藩札を発行して俗に言う佐竹騒動(銀札事件)など政の乱れ領民の一揆が勃発しました。
3代藩主義処(よしずみ)公は寝食忘れ、時には吐血しながらも藩政改革に没頭しましたが立て直す前に亡くなりましたが秋田史館を創設藩政改革に一生を捧げた藩主でした。8代藩主義敦(よしあつ)公は、画家として名高く号は曙山、当時狩野派から絵を学び西洋画と日本画を取り入れた秋田蘭画を家臣小田野直武と共に創設しました。9代藩主義和公が創設しました明徳館は、それまで家柄で藩の役職が決められてましたが明徳館での成績で、下級武士でも役職が付けるという画期的なシステムで、現代の大学のようにテーマを持って議論し合う形を持ち自論を組み立てそれを主張するような人材をつくりました。明治維新では始め奥羽越列藩同盟にて入りましたが新政府側に付き列藩同盟側に攻撃されるも佐賀藩兵の助けもありなんとか持ち堪えました。これは、秋田県民話3番にも記され、旧南部領の亀田藩辺りではその部分が回避されてます。
江戸時代の地図
現代の地図
佐竹商店街になります
この看板探すのにだいぶかかりました。
16220坪
8614坪
亀戸1丁目
屋敷内に祀られてました。
久保田藩抱屋敷地跡
20537坪
荒川区西日暮里(開成中辺り)
佐竹右京大夫
25万5800石
信濃松城藩 江戸屋敷跡 真田信濃守
松城藩は、川中島4郡を領した藩で武田、上杉の戦でも有名な地です。関ヶ原の戦い後森忠政公が13万7000石で入封し松平忠輝公が14万石領有してました。ここまでが当時川中島藩と呼ばれてました。1616年松平忠昌興が12万石で入封し、松城藩と呼ばれるようになりました。その後酒井氏、1622年に真田信濃守が13万石で入封しました。3代幸道の相続の時、跡目騒動があり幕府の判決により沼田3万石を信利に分離立藩する事で決着しました。(後に沼田藩は信利公の暴君ぶりにて改易してしまいました)
当初上田からの入府封の際20万両の蓄えがありましたが3代幸道の時、幕府からの手伝普請などで使い果たした上1717年松城城下が大火で見舞われ幕府から1万両の借財にて復興させました。4代信弘公は、質素倹約を旨とし財政は持ち直しましたが5代信安の時水害にあい幕府から1万両借財し、千曲川の河川改修が行われました。8代幸貫(ゆきつら)公松平定信の子で幸弘の孫娘雅姫と婚姻し養子となり幕府老中として天保の改革の一翼を掲げ藩政改革に多くの成果を挙げた明君であります。
明治維新では早くから倒幕で藩内は一致して新政府側に付き軍功をあげました。それにより財政は悪化して松城騒動がおこりました。
信濃松城藩(長野)所領10万石
4958坪
4870坪
千代田区 永田町
松城藩下屋敷跡
江東区 永代
4273坪
真田信濃守
10万石
備中庭瀬藩 江戸屋敷跡 板倉摂津守
1600年関ヶ原の戦いで西軍宇喜多秀家の家臣戸川達安は内紛により東軍に付きその功により2万9200石で立藩しました。のちに断絶し、一時幕府領になりました。1683年久世重之公が入封し、1686年変わって松平信通公が3万石で入封しました。1699年板倉重高公が2万石で入封し、幕末まで11代172年間続きました。特に7代藩主板倉勝資(かつすけ)は、有能な藩主で、殖産興業や、民政に尽力し、凶作に備えて義倉(ぎそう)という備蓄倉庫を造ったり誠意館という藩校を創設し藩士子弟の教育化に努めていました。
庭瀬藩の中では有能な藩主で中興の英主といわれています。
江戸時代の地図
現代の地図
春日通りと本郷通りの丁度交差点に屋敷地があります。
3909坪
文京区湯島3丁目
2000坪
文京区千駄木
板倉摂津守
2万石